岩手の歴史をちょとかじる


とっかりが興味を持った岩手にまつわる人や建物のエピソードを紹介します。


【石井省一郎プロフィール】

天保12年(1841年)12月28日生まれ。昭和5年10月20日没。

現在の福岡県北九州市出身で小倉藩士。

初代内務省土木局長に就任後、2代目の岩手県令に就任。

以後、岩手県知事、茨城県知事を歴任した。 


藩の行く末を見極め導いた若き藩士

 石井が生まれたのは現在の福岡県北九州市に位置する小倉藩。江戸時代初期からワイン造りをしていたというほど進んだ面もあったが、幕末には保守的な佐幕派が藩内の多数を占めていた。

 そんな小倉藩の中で、石井は尊攘派若手グループのリーダー的存在であり、大変有能だったという。そのため小倉藩は、尊王攘夷を主張する外様諸藩との折衝役に軽輩の石井を抜擢。石井は長州藩や薩摩藩の動向を押さえるため情報収集に奔走した。

 やがて長州の奇兵隊が佐幕派の討伐に乗り出すと、小倉藩もその標的となった。一度は小倉城を自焼させ後退するも、その後は反撃に転じて長州軍を小倉城下まで追いやった。それから六か月におよぶ激闘の末、小倉藩は長州藩に和議を申し入れ戦いは終結した。

 その後石井は、最後の将軍・徳川慶喜追討の命が下った際、小倉藩のお歴々に出兵するよう進言して官軍側に就かせるよう導いた。佐幕派の重鎮たちと揉めることも多々あっただろうが、結果として石井の時代を読む力と周囲を説得する力量が小倉藩の未来を変えたのだった。 

小倉城/慶長7年に細川忠興が築城。現在の姿は昭和34年に再建したもの。


小岩井農場誕生のきっかけは、石井のひと言

 明治時代に入ると、石井は新政府の民部官書記として出仕。その後は内務省土木局長まで務め、当時の内務卿・山形有朋の強い信頼を受けて岩手県令(当時の県知事)に就任した。

 鉄道局長官・井上勝が視察のため盛岡を訪れたのは、明治21年のこと。日本に鉄道が走りはじめ、東北にもようやくその線路が伸びようとしていた。石井は県令として井上の案内役をつとめ、やがて2人は馬車で雫石町丸谷地(現在の小岩井農場)のあたりを通りかかる。井上の目にうつるのは、水はけが悪く火山灰土の影響で酸性度が非常に高い、荒れ果てた広大な原野だった。

 井上が「この土地は誰のものか」と問うと、石井は「これは国の土地です」と答えた。

 井上はこれまで線路を敷くために多くの美田を潰しており、そのことを非常に悔いてもいた。国の発展のために鉄道を通してきたが、犠牲にしてきたものの大きさも身に染みて感じていたのだ。そんな時に国の土地であるという荒れ野原を見て、井上はせめてもの罪滅ぼしに「ここに自然豊かな農場を作ろう」と考える。これが小岩井農場誕生のきっかけである。

 その後は紆余曲折ありながらも土壌改良や植林などを地道に続け、現在の自然あふれる小岩井農場になった。農場に生えている木々のほとんどは、百年以上前の人々の手で植えられたものなのだ。 

小岩井農場の一本桜/もとは放牧地で牛が休むための木陰(日陰樹)として植えられたもの。


開運橋の名付け親

 明治22年。盛岡に初めて市制が施行され、市長選が行われた。投票数のトップは米内受政(米内光政の父)、2位は目時敬之。もちろんトップの米内が市長になるはず・・・だったのだが、石井は周囲の異論・反論を押し切って2位の目時を市長に据えた。理由は簡単。石井は米内を推薦した自由党が大嫌いだったのだ。

 当時は県知事に認定権が与えられていたため、石井が「こう」と決めてしまえば従うしかない。しかし「これでは選挙の意味がない!」と、市会は石井に対する不満をつのらせた。

 当時の石井と市会との険悪ぶりを示すエピソードといえば、開運橋だ。 現在の場所に盛岡駅を作ると決まったものの、当時は夕顔瀬橋と明治橋しかない。これでは盛岡駅から市内へ行くのに遠回りになってしまう。ならば北上川に新しく橋を架けようではないか、というのが石井の案。盛岡駅が町の玄関口になるならば、市内へのアクセスが良いに越したことはない。至極当然の案である。

 が、市会はこれを満場一致で否決。

 この、日ごろの恨みはらさで…とも受け取れる態度に石井は激怒。市会を無視して県独自で開運橋の架橋を計画し、完成させた。

 当時は駅ができるとそちらに人が集まり、町が衰退してしまうという考え方が一般的で、町から離れた場所に駅が作られることも珍しくなかった。そうした後ろ向きな思考や自身にかかる非難や批判を振り払うかのように「ここから盛岡は変わるのだ」として、名前を開運橋にしたという。 

開運橋/現在の橋は昭和28年に架けられたもの。橋長82.25メートル。


◆とっかりメモ◆

 幕末から明治にかけてというのは、熱い信念を持った人たちが本当に多かったと思います。方向は違えど誰もが国の未来について考え、行動していた時代。「俺がやらねば誰がやる!」という意識が強かったのでしょうか。

 石井さんが名付けた開運橋は、今やライトアップするほど盛岡のシンボル的な橋になりました。もしも石井さんがこの様子を見たら、ニヤニヤして「ほれ見たことか!」と言うのでしょうか。「当然じゃーっ!!」って言うのでしょうか。ちょっと聞いてみたいです。


<参考文献>

・森嘉兵衛著「岩手をつくる人々近代篇(下巻)」

・吉田政吉著「新盛岡物語」

・奥羽史談会「奥羽史談」


<旧石井県令邸(石井の私邸)>

住所:盛岡市清水町7-51

電話:019-651-1606

公式ブログ:https://kenreitei.exblog.jp/